[mobile]iPadはなぜiPadなのか

なあんて、愚にもつかない駄文でもノリで書いちゃお、生存証明に(をぃ

いや、凄いですね。正直フィーバーですね、iPad。先日実機を触らせていただけるチャンスに恵まれてしばしその興奮に包まれて参りましたが(いや、興奮していたのは自分だけ?笑)ほんとうに、これは凄いものが出たのだなあ、と実感させられました。
不思議と手頃なサイズ、コンピューターを使っているとは思えない、静かでハイセンスで落ち着いた画面、iPhoneですっかり慣れた操作感、シンプルで無駄のないインターフェース、なかなか練られたソフト達。どれを取っても快適で、高品位で、物静かで、美しい、なにかとてもハイソサエティな(笑)体験がそこには待っていました。

そう、これは全く違う何かが生まれた訳なんだな、と強く実感したわけで。それがつまりこの製品の真に革命的なインパクトを、ごく自然にさらりと体現させられたわけです。ああ、結局こういう製品って、おそらくアップルからしか生まれないんだよなあ。
とにもかくにも素晴らしい製品であることは間違いなく、以前考えたように、おそらくコンシューマーユーザーの6割はiPadにリプレースされるであろう予想がより一層現実味を帯びたのではないか、なんて感覚を持たされてしまうほどの驚きと興奮がもたらされたのでした。

では、なんでこの製品、そんなに画期的でそんなにユーザーを興奮の坩堝に巻き込み、社会現象にまでなりつつあるのでしょうか。
だって、ハードとしては単なるタブレットデバイスで、キーボードも外付けインターフェースもなし。カメラもないし、スロットもない。挙げ句の果てに、解像度だってただのXGAだし。全く革新的なテクノロジーなど載っていないように思える(というか多分載ってない)製品でしかないのに。
おそらくそれは、なんども繰り返しているように「全く新しい独自な製品であること」だからなのだと思います。
比べるものがない製品なのである、ということ。
既にiPhoneやらiPodTouchと比べることさえ陳腐でナンセンス。全くの新しいカテゴリーであることが、その魅力や影響力をもたらしている、いや、あまりに影響力や魅力が大きいから全く新しいカテゴリーであることが認識できるのかな。

とにかく、PCの世界では長らくフォームファクターがあまりに固定化されすぎてきたと思います。デスクトップ、ノートブック、etc… それらはメーカーの製品開発の都合により、価格とサイズでカテゴライズされ、そこにユーザーは取り残され、単にカタログスペックの序列を埋める論理だけがまかり通ってきました。いや、正確にはユーザーの声はメーカーに届いてはいます。でもそれはPCを使っている人で、かつ一部の熱狂的なGeek達の、いわゆるマニアックで、誤解無く言えば、偏ったつまり偏執的な声だったのです。結局今まで、マックでさえも、「コンピューターを使うことは特別なこと」というある種のハードルは、どれも、どの製品も普通の人々のために外すことが出来ていなかったわけで、またそれを外すという意味さえどのメーカーも見いだすことも考えることも出来ていなかったのだと思います。
結果、今あるものから次を発想し続けたため、そこには単に性能に差がつけられたもの達の行列が出来ただけでした。当然ハードのスペックがその製品の存在価値を決定する唯一の物差しであり(だって動いているOSは多少の違いさえあれど、結局ただのWindows(笑))ハードのスペックは、マシン・ガジェットの性能を規定するためには無くてはならない表現手段となっていたわけです。だれもPCをデザインや使い心地、それこそ、色や手触りで選ぶことが中心ではなく、いや、一時期のiMacはそんなカテゴリを作ろうとしたけど、結局PCに戻っていきましたね、一生懸命、素人がハードウエアスペックを比べて、プロセッサーの名前やメモリーの量を覚えて、お店に足を運んでいた、それがPCを買って使う、というエクスペリエンスでした。
当然そんな世界では、ロースペックの製品はロープライで低機能、安物で、いつかはクラウン的な売り方しかされない。魅力と言えば安いだけ。そこには、PCを使うということ以前に、我慢しなければならない製品、という絶対的なレッテルが既にメーカーによって出荷前に貼られてしまい、ユーザーも、この製品はこの程度のものだ、と「何かと比べる」ことでの価値観「しか」見いだせない、そんなモノでしかなかったわけです。当然市場は疲弊し、製品は飽きられ・・・後には屍累々となることは火を見るより明らか。コンピューターを買う目的は、何かを作りたい、ネットにアクセスしたい、といった明確なものなのに、せっかくネットという自由で(多分)素晴らしい、広大なインフラと世界がそこに、まさにすぐそこに横たわって日々エネルギッシュに動き回っているのに、そこを体験するのはとても楽しいことなのに、便利なことなのに、そんな便利で素晴らしい世界を体験するために、凄く奇妙にしんどくてかったるくてめんどくさくて、美しさのかけらもない「儀式」を絶対に通過しなければならないなんて、我々はなんて今まで無駄で空しい努力をしていたのでしょう。ましてやヲタクの皆様、いや我々にとっては、セットアップフェチなる言葉まで生まれ(生まれてない?笑)なんというか、もう自虐的偏執的な世界が、全くの常識となっていた、というのも、今となっては不思議なことだったのですね。自分でインターネットとの距離をめいっぱい広げていたわけです、我々は。

結局それがJobsの言っていた、ネットブックには興味がない、の真の意味だったのかもしれません。そしてなぜiPadがAppleのファミリーとして生まれたのか、今ならばよく分かる、ということになったのだろうと思います。

そもそもiPadは、何かと比べるマシンではありません。と私は思ってます。それは、iPad以外の何者でもない。触れば分かります。今までこんなの無かったから。こんな快適なコンピューティング体験無かったから。いや、冷静に言って、これはコンピューターと今まで呼ばれていたどのデバイスとも全く異なるモノであり、ちょっと斜に構えて批評するなら、「私たちに、いま地球上にあるコンピューティングパワーとネットインフラ及びサービスを、真にヒューマンエクスペリエンスとして提供し得る、全く新しいカテゴリーの製品たる何か」という感じになるのでしょうか(大笑)。
このマシンは、さて、CPUパワーだけで言えば、COREiシリーズより遙かに非力です。画面解像度も平凡です。メモリー・ストレージも「たった」64Gバイトしかありません。なんの物理的インタフェースもなく、たいした処理能力もグラフィックパワーもありません。DVDもないし、BRもない。今までのPCを使ってきた人々の延長線上には我慢以外の何ものでもないスペックでしかないハードウエアです。

でも、iPadは何も我慢することがありません。使えば使うほど快適さが増して、楽しさが増していきますが、我慢や苦痛はありません。いや、買ってからいった方がいいのかな。でもほんとにそう感じました、先日は。あらゆるものが快適さのみを提供するために存在している、そんな感じです。なんといっていいのか、今までやっぱりちょっと苦痛だったりめんどくさかったり多ことと同じもののはずなのに、iPadを使っていると快適にしか感じられない。なんなんだろう、この感覚。無駄が少ない。ストレスが少ない。トラブルが少ない。悩むことが少ない。快適なんです。なにもかもが。平凡なハードのはずなのに。
今までのPCは、今までどんなに高性能なハードウエアを使ってもどっかしら我慢しなければならず、毎度毎度スペック向上の度に、今度こそ今度こそと財布を絞られていた我慢が、このハードには全くありません。当然です。何かをそぎ落とした、何かをあきらめたデバイスとは全く異なるからです。ネットブックとiPadのハードウエアスペックは近いように思えます。でもネットブックは、我慢するのが常識な製品です。アレも出来ない、コレも出来ない、いや、出来るけど凄く苦痛、みたいな。だって、我慢するカテゴリーを生み出すためにデザインされた製品ですからね。早く次のステップへいって欲しい、または次のスペックと一緒に使って欲しい製品だからです。iPadはこれがベストスペックです。ていうかベストもくそもこれしかないし(笑)。どれとも比べることなく、これがiPadです、というハードであり、製品です。なぜそんな製品が可能になったのか。どうしてそんな物作りが可能になったのか。やっぱりこの素晴らしい出来のOSとUIがもたらす、比類無き快適性と体験が現実のものとなったことなのでしょうね。だって、この感じこそ、我々が長年求めていた、こんぴゅーたーをつかうという感覚そのものだと感じられるのですから(当社比)。結局アップルという会社が、世界で唯一?ハードとソフト独自にデザインできる会社であることの本当の意味、そしてそうした会社しか持つこと、実現することの出来ないイノベーションの強烈なインパクトを、一度ならず二度三度と見せつけられた、そんな衝撃的なエネルギーがこの製品には備わっていたわけですね。

タッチUIによる自然な操作感。iPhoneからさらにスペックアップしたハードがもたらす超快適な動作感。(ああ、この点ではハードの序列がありそうな雰囲気ですね。でも違うなあ。これは単なる進歩でしか無く、カテゴライズぢゃないものね。)観る、聞く、調べる、読む、楽しむ、愉しむ、すべてにいわゆる「コンピューター臭さがない」優しさと美しさ。そうそう、ホーム画面でiPhoneよりアイコンの感覚が広くて無駄、とか聞いたりしますが、個人的にはこの余裕というか余白というか、ゆとりが凄くいいです。もの凄く静かにiPadを、コンピューティングパワーを使える、使っている心境になれる、使っている側をヒートアップさせない心地よさがあるように思います。壁紙もより見やすいし、魅力を引き出すしね。つまり、このマシンの価値が「ハードウエアスペックにはない」ことをアップルが非常にスマートにまさに実体験として製品化したことが大変に革命的であり、故にハードウエアなどすでに批評の対象にもならない事実をまざまざと見せつけてしまったのだと思います。コンピューターをハードウエアスペックで評しない、売らない、なんて考えもつかないですよね。そりゃそうだ、コンピューターじゃないもの(笑)。ちょっと語弊があるけど。ハードメーカーには無理な発想ですよね。

でも、実はハードのエンジニアリングデザインにもしっかりとアップルのこだわりがあったのだということは、Twitterで分かりました。このタッチUIを支える液晶の品質。これはこのシリーズの製品でしかない、高価で高付加価値なモノだそうです。確かにこのスムーズな操作感はこの高性能な液晶というかタッチパネルでしかでないモノなのかもしれませんね。今同時にNexusOne使ってますが、全然違いますもの。全くの別物ですからね、快適性。

というわけで長々と思いつくままに書き殴って疲れてきてますが(笑)、本当に、この「全く我慢しない、または我慢するところから発想されていない、新しい、本当に新しい製品カテゴリ、というか体験?みたいなものが具現化された製品」に対する私が興奮している、そして喜んでいる部分がなんとなく伝われば幸いです。ほんと、この興奮をちょっと書き留めておきたかったのでした。

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