ネット経済の先には何があるのだろうか なあ

昨今のコンテンツの平準化、というか大衆化?といったモノはいったい何を生むのだろうか。
なんて考えてしまうことがある。

ま、そんなたいそうな話じゃあないんだけど。
でも、今日の教授のライブの無料ストリーミング配信なんかをみてるとちょっと考えてしまう。
というか、そもそも論として、これだけあらゆるコンテンツが広告経済ベースになりつつあると、その対価や目的はどこへ行ってしまうのだろうか?どうやって金を儲ければいいのだろうか?いや、そもそも金を儲けるなんてことが可能なのだろうか?等と考えてしまう。さらには、今はネットの世界が、ネットの広告市場が主となってこうした経済循環になっているけど、そもそもそれがもっともっと大衆化して、あらゆる分野、あらゆる経済行為に波及していった場合、いったい広告という手段を持たなかったらどうなってしまうのだろうか?とか、そもそもの対価というのは誰が何にどのような基準で設定できて一般化できるのだろうか、等と思ってしまい、やや不安になったりする。

でも、それって、本当にそうなんだろうか。我々は何かを見落としているのではないだろうか。

そもそも現在の市場経済システムという形態は、人間活動の成熟につれて人間が考え出した社会ルールである。地域経済が規模を拡大し、グローバル化し、経済のルールが国家間のシステムとして規定され、今に至り、またメディアの変遷に従ってその姿を適応させているだけである。だけであるにしてはあまりにその規模はヒューマンスケールを超越しているけど。
でも、我々の生活は実態としてそんなスケール感を持っているのだろうか。
我々の日常はそんなに大きな規模と大きなルールで動いているのだろうか。
実態としてね。

インターネットというメディアを通じて我々の世界の出来事やルールは光の速度で変化している。昨日の常識はすでに今日の歴史となり、明日への希望はすでに明日には日常である。そんな世界で、我々は経済のスピードと規模に翻弄され、大きな力しか認識できずに何か日々流されているような気がして不安になってしまう。俺だけかな?(笑

一体これからどれだけのコンテンツがネットというメディア上で無料化され、その経済価値の基準はコンテンツそのものの手を離れ、間接的な対価に置き換わるのだろうか。よく考えてみれば、坂本龍一の生ライブが、リアルタイムで無料で視聴できるのである。あの音質、あの臨場感で。一般人の生活など、情報など、なんの価値があるのだろうか。そんなモノに誰が間接的に価値を見いだすのだろうか。または、自分の価値観など、どこで生かされるチャンスがあるのだろうか。自分の考えがいつになったら経済活動に反映されるのだろうか。そんな規模では何も出来ない無力な一人の人間ではないかいな。
でも、本当にそうだろうか。我々、いや、私が坂本龍一のUSTライブから得たモノはなんだったのだろうか。はたまた、坂本龍一は、なんで自分のライブを会場の人からは対価を取って、USTには無料で流したのだろうか。何でだろうか、なんの意味が、価値が、対価があったのだろうか。

というよりも、そもそも、何を目的に、と言ったときに、我々、いや私だけかもしれないけど、なんで「金銭」を思い浮かべてしまうのだろうか。なんでコンテンツでも技術でも、そもそもモノでも何でも、「金銭」を基準に考えてしまうのだろうか。だいたい金銭というのはなんなんだろうか。金銭を目的にして、USTに無料でライブを流す人がいるのだろうか。
余裕とか、趣味とかいってみるのは簡単だが、実はもうちょっと本質的なことがあるような気がした。
そこには、単純に、「やりたいこと」と「それへの反応」という素朴なコミュニケーションがあるような気がするのである。それは何か。別に経済活動でもなく、社会ルールでもなく、そこにあるモノとそれをみた人のシンプルな関係式である。

その関係式がどうなるか、どう価値づけられるか。

関係式の価値、あるコンテンツとそのコンテンツに触れた人の関係は、ものすごく個人的なことで、またそれは社会化、平準化出来ないことではないか。ルール化出来ないことではないか。それは純粋に、「我々のモノ」ではないか。我々の手の中にあるモノではないか。
そして、我々のモノは別に金銭になることが目的ではなくてもいいのではないか。あたりまえだよね。それがそれそのものとしてそこにあって、そこにずっとあっていいものではないか。そうしたことが純粋に価値になる、価値として認められる程度のモノであり続けることが可能ではないか。
そう考えると、経済という考え方をちょっと斜めに見ることが、個人だからこそ、小さなコミュニティだからこそ、ちょっとしたコミュニケーションだからこそ可能になる、気がする。そう、私とあなたのやりとりに、金銭が必要かどうか、が判断できるモノになりはしないだろうか。

そんなことあたりまえじゃん。いつだってそうしてるじゃん。「あれやっといてやるから、明日昼飯おごってよ」「あれ買っといてやるから、それ買っといてよ」当たり前のようにやっていることである。でも、当たり前といえる範囲が妙に狭くはないだろうか。思い切って、全部そんなことになったら、どうだろうか。なんて考えてみるのは楽しくないだろうか、ねえ。

物事がどんどん特殊化し、マイクロ化し、ローカル化していくなかで、それらを「平準化」し、流通可能な価値に置き換える操作に、だんだん意味が無くなる時代が来るのではないだろうか。だって、きみとぼくが納得できればいいことをどうして広大な地球規模のルールで再定義しなければならないのだろうか。そんな無駄なこと、めんどくさいこと、意味がないじゃん。
つまりもって、メディアが高度化し、コミュニケーションが多様化し、自由がさらに冗長化されると(つまり何でもありになっていくことが高度に技術的に保証されるようになる)、我々の経済は、どんどん原始化していけるのではないだろうか、どんどん我々の手に戻ってくるのではないだろうか、というような気がしてしまうのである。

インターネットを通じ、あらゆるモノがコンテンツと称され、あらゆるモノが流通可能な形態に置き換えられるパラダイムシフトは、実はその先に、貨幣経済のパラダイムシフトを誘発する可能性があるのだ!なあんてちょっといってみたくなったのである。うんうん、なんかたいそうなことをいってるっぽい自己満足を感じる(笑

要は自分の能力、持ち物、コミュニティ、様々なモノが「直接的な」兌換構造になる、それが可能になってきた、と感じるのだ。坂本龍一のUSTライブは、古川さんと平野さんの協力で実現した。でも、そこには雇用関係も契約関係も無かったと思う。いいや、議論上全くなかったとしてしまえ。そうしたとき、なぜその行為は成立し、コンテンツは無償で供給されたか。そこには、技術やノウハウの「物々交換」が成り立っていたわけ。で、だ。彼らは別に特別親しい友人関係でも(おそらく)なく、Twitter上でのやりとりでそれを「実現」してしまった。そこになんらの契約関係も特段介在させず、それを成立させてしまった。凄いことがおきているのである、とは思いませんか、みたいな。

我々の生活もそんなことになったら、ちょっと面白くないですかね。誰かのノウハウが直接的に食料に交換される。誰かのアイディアが直接的になにかのモノやコンテンツと交換される。それが可能な市場システムが当たり前のように存在する。友達同士でやっていたことと同じ感覚同じスケール感で、それらがグローバルに一瞬で行われてしまう。そんな社会になってしまったら、全部じゃなくても、なんか突然「生きる」ということの意味ががらっと変わる気がしませんか。流石に私だって全部が全部そうなるなんて思わないし、言わない。世界経済は依然世界経済たり得てそのまま存在し続けるだろうし、それらはさらにスケール感を増して我々の手を離れていくでしょう。でも、私たちの「生活」それ自体が、凄く物々交換になっちゃって、なんかやりとりとか活動とか、いや生き様そのものが全て交換可能なコンテンツになっちゃう。だから欲しいモノとか、みたいモノとかへの金銭的な感覚が失われてしまったら、私たちの生き方はどうなるのか、なあんて考えてみると、ちょっと面白いと思いませんか?
米が欲しいと思ったら、半月ほど農家へ手伝いに行く。自分の労働力を直接的に米に交換しに行く。数ヘクタールから収穫される米のうち、数十キロをもらってくる。そこには金銭は存在しない。労働力を評価する人、必要とする人と、米を必要なだけ得るために何をすべきか、という価値の交換があるだけ。そして互いが得たモノが、金銭の仲介に寄るモノの数百倍、数万倍、価値がある、増幅されるモノかもしれませんよ。
服が欲しい時、洋服を造るのが上手な人がいて、その人が花を育てたいけどうまくいかなくて、なんてシチュエーション、とか。
家を建てたい人と、車が欲しい人と、恋をしたい人が、一瞬で結ばれちゃったりとか。
お金の価値なんて、そう考えるとどうでもいいものだし、だいたいなんで自分の価値を、金銭に換算して人に説明しなきゃならないのだろう、という、ある意味社会で暮らす人間の必然みたいな悩みから、解放されるかもしれないですよ。
もちろんお金が必要な生活もあるだろうし、お金を必要する人もいるでしょう。そうしたら自分というコンテンツをお金に交換してくれる人とやりとりすればいい。今回は10万と交換してください。それだけのこと。普段は、キャベツやにんじん、牛肉と交換している自分をお金に一時交換する、ということです。そんな生活があったら、いや、そんな風なことにならないと、この先の世界と自分は結びつかないんじゃないか、とか思っちゃったりしたのです。

SNSやブログ、その他様々なネットメディアで、今、自分をどう表現するか、自分をいかにコンテンツ化するか、みたいな時代に来ていると思います。あらゆる情報がマイクロ化され、世界がマイクロ化されていくと、それは結局人間に行き着くのだと思います。だって、人間がやっていることなんだから人間以上にマイクロ化してもしょうがないよね、たぶん。そうした時、その本当の意味が、その結果が何か社会を大きく変えるのではないか、と密かに期待するという、希望を持っている自分に気がついたりした今日この頃だったりしたわけです。

坂本龍一は、あの素晴らしい音楽を、USTしたいと思えば、いとも簡単に実現できた。分かりやすいこと。ニーズと了解がそもそも存在してるから。
例えば私は設計屋なので、住宅を設計してみたい、様々な家を生み出したい、という欲求をどう実現するか。夢をどう実現するか。家を建てたい人にどうリーチするか、そんなことを考えたときに、ああ、設計料は、なんて議論ではなく、あれをくれれば、こうさせてくれれば、こうしてくれれば、こんな人間関係を築いてくれれば、なんて経済が実現したら、なんか凄く気が楽になっていい仕事が出来たりしないかなあ、なんて「夢」をみてしまうのです。

貨幣経済の減退と、才能や能力の物々交換経済がもしかしたら起こったりしてね。そしたらなんか楽しそうだなあ。
無責任ですけど。

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